#警視庁物語 十五才の女
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千葉真一 Sonny Chiba
警視庁物語 十五才の女 1961
Police Department Story: The 15 Year Old Woman
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📛 1392 「怪人二十面相」 #7カラ9。
江戸川乱歩さんの ポプラ文庫版 「怪人二十面相 (江戸川乱歩さん、ポプラ社 2008年)」 を読んでいます。三十一章から成る物語の第七章は 「壮二君のゆくえ」 というお話です。警察らに追い回されながらも 池の中にざぶーんと飛び込み、水の中で潜水をしていたところ、側にいた マツノ運転手に見つかり、とっ捕まりさうになった怪人二十面相は マツノ運転手を組み伏せ、用意していた絹紐と猿轡で がんじがらめにし、まんまと マツノ運転手に成り代わり、そして ハシバ家のこどもたちの学校の送り迎えをするマツノ運転手の自動車で ブイーンと姿を消しました。警視庁は 直ちに東京全都に非常線をはって 自動車のゆくえを追ったのですけれど、自動車の中に乗っていたっぽい ソウジくんもろとも消えてしまった自動車は いつまでたっても分かりません。ところが その日のお昼過ぎ、ひとりの薄汚れた背広に鳥打ち帽の青年が、ハシバ家の玄関に現れ “頼まれて自動車を運んで来た” と、妙なことを言い出します。それっ!と玄関へ駆け出した 主人のソウタロウ氏や近藤老人らは 誰も乗っていない自動車のクッションの上から (“ハシバソウタロウ殿必親展”) と大きく書かれた一通の封書を見つけ、封を開いて庭に立ったまま読み始めました。そこには と��もとてもおそろしいことが書いてありました。
つづいて
江戸川乱歩さんの ポプラ文庫版 「怪人二十面相 (江戸川乱歩さん、ポプラ社 2008年)」 を読んでいます。三十一章から成る物語の第八章は 「少 年 探 偵」 というお話です。ハシバソウタロウ氏が受け取った手紙には とてもおそろしいことと要求が書かれていました。怪人二十面相の要求は ハシバソウタロウ氏所蔵の “観世音像 (鎌倉期の彫刻、安阿弥の作)” です。ううむ、素人では太刀打ちできないと 皆が悩むなかで 門脇女学校三年生で 妹のサナエさんらが “明智小五郎” という名を口にします。早速、支配人の近藤老人が電話帳をぺらぺらと調べて 明智小五郎探偵事務所に電話を入れると 電話口から こどもらしい声で “明智小五郎先生は重大事件を追って海外へ出張中” とのこと。コバヤシという助手でよければ Uber Eats よりも直ぐにお伺い出来るさうです。うーむ、助手の方では どうも… と、近藤老人は躊躇しますけれど、先生に劣らぬ腕利きということですので お頼み願いました。さてさていよいよ、小林昭二さんでも小林桂樹さんでもハヤト・コバヤシでもない コバヤシ名探偵がハシバ家を訪ねてきました。見た目は どう見ても少年のやうで、とはいえ、見た目はこども、頭脳はおとなの可能性もありますから、ハシバソウタロウ氏のところに さささっと案内されます。十二、三才くらいの少年に見える少年の名は コバヤシヨシオというさうです。明智小五郎先生から、留守中の事件はすっかり任されているのださうで、ハシバ家がいまどんな目に遭っているのかということも 何となく想像されていて、この事件に 怪人二十面相が関与しているのではありませんか?なんてことも ぴったしカンカンしていたりするコバヤシ少年を見て 恐るべし子どもだと すっかり感心したハシバソウタロウ氏は 事件の顛末を詳しく語り聞かせます。短い質問をスパッと挟みながら 熱心に聞いていたコバヤシ少年は “ひとつうまい手段を考えついたのです” と、ソウタロウ氏にいきなり近づいて 彼の耳元に何かを コソっと囁きました。
つづけて
江戸川乱歩さんの ポプラ文庫版 「怪人二十面相 (江戸川乱歩さん、ポプラ社 2008年)」 を読んでいます。三十一章から成る物語の第九章は 「仏 像 の 奇 跡」 というお話です。お話は飛びに飛んで コバヤシ少年の考えが実行されることに話が決まった その夜のこと、二十面相の部下三人がぞろぞろとハシバ家の門をくぐり抜け、迷いもせずに美術室の入り口に現れました。入り口の前で構えるは ソウタロウ氏とコンドウ老人。人質のソウジ君が連れて来たのかどうかを尋ねると 部下のひとりが無愛想に ハシバ家の門のそばまで連れて来ているとのこと。ですが、目当ての物を運び出すまでは いっくら探しても見つけられないやうに工夫がされているさうです。そんなこんなで 美術室へドカドカと入っていった三人は 土蔵のやうな造りの部屋の、薄暗い灯りの下に グルッと周りを取り巻いているガラス棚の中から 例の観世音像を見つけ出しました。ガラス箱の中に安置されている観世音像をグルッと巻いて 側から見て��分からない布包を拵えた三人は 壊さぬやう慎重に乗って来たトラックに積み込みました。"あばよ" と走り去ったトラック。肝心のソウジ君は何処に!と思ったのも束の間、ソウジ君は 乞食のコスプレをさせられていて、その汚いなりから それがソウジ君とは誰も思わなかったのでした。族の巣窟へ急ぐトラック。止まった先は 戸山ヶ原の入り口でした。老人に化けた二十面相は、仏像の入った布の巻きつけたままのガラス箱を 広い部屋の真ん中に運び終えた三人に うまくやってくれたと 数枚の千円札を与えて部屋から立ち去らせました。目当ての物を目の前にし、喜ぶ暇もつくらず、ガラス箱を巻いた布をゆっくり取り去り、観世音像を剥き出しの丸裸にした 二十面相な老人は 「アッ!」 と叫びます。な、なんと 観世音像は 二十面相な老人に向けてピストルを突きつけていたのです。
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3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
問い9:日本の朝鮮から撤退後について>3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
目次は こちら
3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
日本は、1876年に朝鮮と交流を始めて、1945年に朝鮮から撤退した69年間に、形がなく目に見えないものも朝鮮に残してきています。以下に思いつくままにそれらを列記します。
① 李氏朝鮮時代は労働をすることを恥と思っていた両班が、1892年に科挙の廃止と、1894年の金弘集政権による身分制度の廃止と、総督府の身分差別を認めない政策とによって、労働をしても恥ずかしくない意識となり、新しい労働文化が生まれました。そして現在の韓国では、優秀な人々の労働の成果が生まれました。
② 李氏朝鮮時代は怠けて貧しさを装うことが自衛手段だった農民と漁民が、豊かになっても両班や官僚によって収奪されなくなったので、積極的に働く社会意識と労働文化が生まれ、朝鮮の新しい発展の原動力になりました。
③ 物として売買され、人権も「姓」もなかった奴婢が、その身分から解放されたので、好きな姓名を持つことができ、日本統治時代には朝鮮人は原則的に全員が平等な社会の一員になりました。
④ 李氏朝鮮時代は、地方の行政官が行政・警察・司法・徴税・軍事とすべての権限を持っており、その地方では絶対的な権力を持っていたので、思う通りに農民と漁民と奴婢から収奪し賄賂を受け取り、横領を重ねていたが、日本統治時代には行政と警察と裁判と徴税が分離されたので、諸悪と腐敗の根源がなくなりました。
⑤ 李氏朝鮮時代は、国王と大臣が多額の賄賂を受け取って地方の行政官を任命し、各種職位を売っていましたが、日本の統治により国王も大臣も売官売爵ができなくなり、地方官は多額の賄賂の必要がなくなり、地方へ派遣された官僚は多額の賄賂のお金を取り返す必要がなく、その結果庶民からの収奪がなくなりました。
⑥ 大韓帝国時代に韓国政府から日本へ財務顧問の派遣を要請するまでは、大韓帝国政府の財政は逼迫しており、その上皇室は国家財政から奪って贅沢な暮らしに耽っていましたが、財政顧問の指示で皇室財政と国家財政を分離して管理されるようになり、国王による勝手気ままな無限の享楽による国費の浪費ができなくなりました。
⑦ 昔からおよそ500万人前後と言われていた朝鮮半島の人口が、1910年時点の人口調査では1312万人でしたので、それまでは徴税額の62%が地方官僚による横領が行われていたことが判明しました。総督府の正確な人口把握により地方官僚は横領ができなくなり、全額中央政府の収入になり、国家財政の不足は改善されました。
⑧ 李氏朝鮮時代の法廷は、罪人とされた人に自白するまで拷問を加える場でした。その拷問はここに書きたくないほど残酷極まりないものであり、拷問と訊問が同時に交互に行われるのが当時の朝鮮の法廷であったことが、西洋人によって報告されています。日本の関与により直ちに近代的な司法制度に改定され、公正な裁判が行われるようになりました。そして笞打ち刑は朝鮮笞刑令廃止制令(1920年4月1日)で廃止されました。
⑨ 李氏朝鮮時代の監獄は、狭い所に多くの囚人を男女区別なく押し込み、一人当たりの面積が0.47平方メートルであったと��述されています。日本統治時には日本やアメリカ並みの広さと処遇にして、少年と女性の受刑者を一般の受刑者と分け、出獄後の厚生を出来るように少年たちには学校の授業を行い、一般の受刑者にも職業訓練などの教育をして、出獄後の再犯の発生を防ぐことを主にしました。李氏朝鮮時代の刑罰主義一辺倒から再犯防止主義へと監獄行政が転換されました。
⑩ 李氏朝鮮時代には、経国大典がありましたが無視され、実際には国王や官僚によって統治が恣意的に行われていた面が多かった行政が、法体系を日本から移入して整備されました。『朝鮮総督府施政年報 昭和14年度』の「第1章 総説」の「第2節 法規の制定及整理」には、郵便・電信・工業所有権・著作権・会計などは日本と法制の統一を要するので、勅令をもって施行し、民法・民事訴訟法・刑法・商法・裁判・監獄・教育・地方制度・土地収用・永代借地・河川・港湾・水利組合・森林林野・漁業・鉱業・会社・銀行・金融組合・商業会議所・市場・鉄道・道路・寺刹・墓地・諸税・国税徴収・関税・医業・薬品・危険物・伝染病予防・行政執行・海事及水難救助・諸営業取締などの諸法規や法令は、朝鮮の実情に合わせて導入され、順次改正を加えながらこれらに基づいて行政を行ったことが記されています。人治から法治へと変化したのです。これにより、朝鮮の近代国家への脱皮が推進されました。これらの法体系は、日本が朝鮮から撤退した後もその多くが影響を残したものと思われます。
⑪ 李氏朝鮮時代には、初等教育は書堂だけであり、書堂が女性を受け入れなかったのに対し、日本統治により小学校が普及して女性も学校へ行けるようになり、高等女子学校が57校もできて高等教育も受けられるようになりました。これにより、国民の半分を占める女性が学べるようになり、女性が男性と対等に学べる環境がつくられました。これは、最近女性大統領や大臣・長官が出るまでに女性の地位の向上するきっかけとなりました。また、家の中に閉じこもって昼間に屋外で姿を見せることがなかった女性が、日本統治時代には昼間から外に出るようになり、女性解放が進みました。
⑫ 日本の統治時代に多くの朝鮮人の人材を育ちました。その一つは工場や会社を経営した人達です。『大韓民国の物語』の「第二部文明史の大転換」の「9 日本がこの地に残した遺産」の「人的な資本」の188ページには次のように記されています。
[何よりも貴重な人的資源は、店舗や工場���1920年代以降、前近代社会の褓負商(行商人)に代わって、固定した店舗をもつ商人の数がどんどん増加し、1938年段階では店舗の数が39万6000にも達しました。1939年の段階で、5名以上の従業員を雇用する工場や会社を経営する朝鮮人は4000名にも達します。その中に今日の韓国を代表する企業グループを創業した三星の李秉喆、LGの具仁会、現代の鄭周永らが含まれています。]
また、二つ目の人材グループは、学校卒業後に総督府や学校に就職した人達です。彼らは官吏として、教師として活躍しました。その数は約17万人に達していたと、『大韓民国の物語』に記されています。第三のグループは、銀行員・医師・法律家などです。第四のグループは日本へ行って会社や軍隊に入って日本の考え方や仕事の仕方を身に着けた人たちです。このような多くの多種の人材を育てて朝鮮に残してきました。彼らの多くは李氏朝鮮時代には存在しなかった職種の人達です。日本統治時代の教育をベースにして、日本人と一緒に仕事をする過程で、或いは日本へ留学をして、あるいは独自に道を切り開く過程で、これ等の朝鮮の人材が自らを育てたのです。或いは日本の軍隊に入って厳しい規律と強い意志で自らを鍛えた人も居たと思います。このような人材の存在が、日本が撤退した後の韓国の発展を牽引したと言えます。これも目に見えない日本が残した人的財産といえると思います。
⑬ 1904年8月22日に締結した日韓協約より派遣された日本人顧問は、財政の整理や予算編成に関して租税法規を制定し、歳入の確実な増収を図ると共に、旧来の徴税機関による誅求の弊害を正し、宮内府の管理していた租税や専売事業などを政府に移したが、1905年の予算で207万円(現在価値で約414億円)が不足したので、1905年から1909年までの5年間で約2070億円を日本の国家予算(日本人の税金)で補いました。
⑭ また、日本統治時代になって総督府が設立されて、朝鮮の政府として活動を始めましたが各種の費用が不足して、日本から総督府予算の不足分を1910年から1943年まで毎年多額の資金を「補充金」および「公債」として日本から投入し、朝鮮の改革に使われました。『朝鮮総督府統計年報』によれば、「補充金」の合計額は4億6610万7052円で、「公債」の合計額は15億9363万8633円で、総計20億5974万5635円が日本から朝鮮へ支援金として投入されていました。当時の20億円は現在価値に直すと約2万倍となり、約40兆円です。
植民地からは何でも吸���上げるものと一般に思われていますが、朝鮮の場合には逆に日本本土の政府から、日本国民の税金と日本人から集めた資金で、朝鮮の酷い状態を改善する諸施策を実施するために、現在価値にして約40兆円もの莫大な金額が注ぎ込まれていました。これも目に見えない日本が残してきたものであるといえます。
⑮ 李氏朝鮮時代には儒学の中の性理学だけが学問と看做され、その反動で仏教は弾圧され、寺は山奥に移り、仏像などは破壊されるかあるいは地下に埋められました。日本の統治時代に日本の考古学者などが総督府と共にそれを発掘し、博物館を創ってここに展示しました。朝鮮に博物館を造ったのは朝鮮人に暗殺された伊藤博文統監でした。この時点でこの博物館の展示品は、朝鮮古来の制度・風俗・宗教・美術・工芸・その他歴史的に参考になるもので、陳列の総点数は1万3375点に達していました。
さらに、総督府は1933年8月8日に「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令」を制定して、朝鮮の文化財や天然記念物が海外に売り飛ばされることを厳禁して、保護しました。捨てられあるいは埋められていた遺物を発掘し、文化財として大切にして保存する考え方は、当時の朝鮮には無く、そして考古学も無く、考古学の専門家も居ませんでした。李氏朝鮮時代と大韓帝国時代には誰も顧みなかった文化財を発掘保存した行為は、日本が残した目に見えないものです。当時の朝鮮人はこの分野に関心が持たれていませんでした。陳列の総点数が1万3375点に達していたことは、朝鮮の発掘された文化財が大切に保存されていたことを物語っています。
⑯ 李氏朝鮮時代から大韓帝国時代の初めまでは、学問は儒学が全てでしたが、朝鮮が日本へ門戸を開いて使節団を日本へ送ってから日本並みの学校制度への取り組みが始まりました。しかし、本格的に学校制度が日本並みに整ったのは総督府の教育への熱意と現在価値で14兆円を超える大型投資とを待たねばなりませんでした。日本が朝鮮から撤退した時点では、女性を含めて誰でも学校へ行けるようになり、李氏朝鮮時代のように身分と性別による学習の制限はなくなりました。総督府により朝鮮の僻地にまで教育の手が差し伸べられて文盲をなくす努力がなされ、教育の重要性が朝鮮人に認識され、朝鮮人の学問と知的水準が高まりました。そして、この学校教育は朝鮮人の人的資源の苗床になりました。
⑰ 李氏朝鮮時代はまともな貨幣制度がなく、商業や経済の発展の阻害要因になっていました。大韓帝国から顧問として招聘された日本人が指導して貨幣制度と金融体制を整え、朝鮮が発展する基礎ができました。朝鮮は日本統治時代になって貨幣と金融制度が整った近代国家と成りました。この金融制度が整うことで、市場経済のシステムが機能するようになりました。この市場経済システムは朝鮮が日本統治時代になって初めて経験したものであり、日本が撤退した後の現在の韓国の体制の中にも引き継がれたものであるといえます。
⑱ 日本が朝鮮と交流を始めた1976年の日朝修好条規が結ばれた頃から���本による併合までの朝鮮は、衛正斥邪運動が盛んであり、朝鮮が世界で一番文明度の高い国との思い上がりがあり、洋夷と倭夷を排斥して朝鮮の対外開放と近代化を阻止しようとする両班と義兵が盛んに活躍した時代でした。日本の統治を経た後は目立った対外排斥運動はなくなり朝鮮は外に向かって目を向けた状態となりました。これは韓国が発展する基礎と���りました。
⑲ 日本統治時代の初め頃まで、朝鮮の各地に匪賊・草賊が猖獗を極めており、住民は彼らに襲われる恐怖におののいていました。そこで総督府は、朝鮮全土の499カ所に隈なく日本人と朝鮮人からなる憲兵分遣駐屯地を設けると共に、匪賊討伐を行い、朝鮮から匪賊や草賊は消えました。これにより朝鮮の人々は安心して生活できるようになりました。
⑳ ⑳ 日本を見て開化派となった朝鮮の人たちと福澤諭吉の高弟井上角五郎の協力により、朝鮮初の近代新聞(官報)である『漢城旬報』が1883年に刊行されました。これは井上角五郎らが新聞の必要性を訴えて、朝鮮政府の外衛門の顧問となり、外衛門に博文局を設置してもらい、井上の指導と努力のもと発刊にこぎつけたものです。初めは朴泳孝と兪吉濬が居ましたが朴は左遷され、兪は米国に留学してしまったのです。この時に使われた漢字活字は三輪広蔵らが日本から持ち込みました。
しかし、金玉均の政変の時、博文局は放火され印刷機械が焼かれて、『漢城旬報』は39号を以て、1884年12月に廃刊になりました。
当時、朝鮮では全ての文書や書籍は漢文でした。それは当時の朝鮮の知識人は、ハングルは真の文字ではないとして馬鹿にしていたからです。そして相変わらず知識人の特権意識としての公式書には漢字(漢文)だけが使われていました。
実は、ハングル文字の使用は燕山君によって禁止されていました。燕山10年(1504年)7月20日、「今後ハングルを教えるなかれ、学ぶなかれ、また既に学んだ者は用いてはならない。ハングルを知る者をすべて摘告するように漢城市内に発令せよ。それを知りながら報告しなかった者はその隣人と併せて罰する。」とのハングル禁止令が出されました。
続いて7月22日には「所蔵されているハングル書はすべても焚書せよ」との指令が出されていました。
1506年には中宗によってハングルを研究する唯一の公的機関である「革諺文庁」を廃止されていました。このことは『朝鮮王朝実録』に明記されている事実です。
一方、福沢諭吉は朝鮮を文明国にするためには世界で起こっていることを知り、文明開化の意味を知る必要があると考え、ハングル文字の活字を世界最初に発案し、私費でハングル活字を���らせ、漢字・ハングル混じりの新聞の発行と普及に勤めたのです。
1885年6月、博文局総裁と成った金允植は新聞再刊のために新たな印刷機とハングル活字の購入を井上に依頼し、福沢の門人の井上角五郎は帰国して福沢が造ったハングル活字と印刷機械を買い取って朝鮮に戻りました。朝鮮史上初の、漢字・ハングル混合文を用いた『漢城周報』の創刊号は、このようにして金充植と井上角五郎とによって1886年1月に発行されました。
ハングル禁止令以来、公的な文書においてハングルが用いられることはありませんでした。しかし、この朝鮮において、政府の関与した新聞にハングル文の記事が採用されたのです。約382年間も顧みられなかったハングルが福沢諭吉と井上角五郎によって蘇ったのです。しかし残念なことに、赤字財政のため博文局が1888年7月7日閉鎖され、2年と6カ月で『漢城周報』は廃刊となりました。
その8年後の1896年になってようやく、「独立協会」によってハングル文字の『独立新聞』が発行されました。この新聞は福沢諭吉が提唱したのと同じ主旨で、民衆の意識を呼び覚ますために、ハングル文字で発行されました。
また、日本統治時代の学校の教科書は漢字・ハングル混合文で編成され、これが使われました。それまでは漢字だけの教育が書堂でなされていたのですが、日本の統治時代になって初めて190万人の小学生に対する6年間のハングル文の必須科目としての学校教育によって朝鮮人の識字率が大幅に向上し、文化や産業の発展の基礎になりました。
現在の韓国の文字ハングルは、約382年間も公式には顧みられませんでしたが、福沢諭吉と井上角五郎によって再び日の目を見るようになったものであるといえます。しかしなぜか、現在の韓国の教科書は、上記の幾つかの大切な事実を完全に隠蔽して、若者に教えていません。
㉑ 李氏朝鮮時代の末期まで、病気になると、医師といえる人と病院がなく、病気に対する知識もなかったので、巫女や祈祷師に依存して居たようです。日本統治時代になって医療制度が整いました。『歴史を偽造する韓国』によれば、京城帝国大学の医学部において最先端の知識と技術を持った朝鮮人が1929年から1943年の15年間で237名が卒業したことが記されています。その結果と総督府の努力により、身近に医者や病院ができて医療環境が整い、そこで診てもらうと病気が治るようになると、巫女や祈祷師に依存しなくなりました。
㉒ 李王朝時代までの朝鮮は儒教の国でした。儒教は序列が基本です。その序列は儒教の生まれた中国は大中華で朝鮮はそれに次いで「小中華」で、儒教を知らない日本は「蛮夷」であるとして蔑視していました。
日本の統治時代を通じて朝鮮の小中華思想は完全に消えたと思われましたが、まだ基本的な部分で残っています。例えば韓国では日本の「天皇」を「日王」と表記しています。蔑視していた日本が「皇」と称することは許せないので、皇より下の王の表現にして日本を蔑む侮日の気持ちが、現在でも「日王」の表現を用いさせていると思われます。
これは日本に対して失礼極まりないことですが、そのことに韓国の人は気付いていなのか、あるいは気付いているからこそ、このような日本を貶める表現を使っているのかもしれません。
㉓ 朝鮮では儒教の教えで「親からもらった体を傷つけてはいけないとの思想から、髪の毛は生涯一度も切らない習慣がありました。高宗が断髪令を出したところ、日本人とそのときの金弘集政権へ非難が集中し、国王はそれを撤回して、民衆に近代化の改革を進めていた金弘集総理を殺させました。このような激しい反発があった断髪令ですが、その後自然に髪の毛を切る人が増えて、日本の統治が終わる頃には殆どの人が断髪していました。これは日本が残したものと言えないかもしれませんが、その影響はあったと思います。
㉔ 純宗は皇帝就任の3年後に勅諭を発して、日本との併合に踏み切りました。併合条約公布に際し大韓帝国皇帝が公布した勅諭を、朝鮮語の『朝鮮王朝実録/純宗実録3年』の邦訳を、『フリー百科事典Wikipedia』から引用して次に記します。
[皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、中夜憂慮善後の策茫然たり。
此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せしむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ
朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年(1910年)八月二十九日 御璽]
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上の大韓帝国皇帝が公布した勅諭は、新羅の最後の国王が、王子たちや大臣たちの反対を退けて、高麗に降ったときと同じ思いが記されています。純宗の勅諭のアンダーラインを付した部分の記述は、純宗の思いが、新羅の国王が高麗に降ったときと全く同じです。新羅の敬順王にとって隣に高麗があったように、純宗にとって、隣に日本があったのです。これも、日本が朝鮮に残した目に見えない影響だと思われます。
「韓国併合ニ関スル条約」の協議調印に関する内閣総理大臣李完用への純宗皇帝の全権委員任命状を示します。御璽御名が印されています。
㉕ 日本人は朝鮮から引き揚げる時、1000円だけ身に着けることが許されました。その結果、個人と企業などの銀行預金などの金融資産は全部朝鮮の誰かのものになったのです。日本が朝鮮から撤退しても、その時まで朝鮮では日本のお金が通用しており、朝鮮人も朝鮮の企業も、資産はすべて円です。ですから、円の価値を直ちに零にすることは不可能です。日本人が引き上げた後も、何らかの対策が取られるまでは、円の価値は朝鮮では保持されたはずです。その対策が執られても、それは円を変換(交換)する必要があるだけです。日本人が残して来た莫大な現金資産を、朝鮮人の誰かが自分の物にしたのです。
㉖ 日本は朝鮮の地に,誰でも自由に活動できる資本主義経済システムを残してきました。1939年時点で、朝鮮に於ける職業別戸数がこのことを示しています。『総督府年報 1941』の「第1章 総説」の「第3節 戸口」によれば、
全戸数 :朝鮮人412万3646戸、 日本人 16万1400戸
農業 :朝鮮人292万5988戸、 日本人 7047戸
水産業 :朝鮮人 6万4355戸、 日本人 2233戸
鉱業 :朝鮮人 7万1532戸、 日本人 5966戸
工業 :朝鮮人 12万2341戸、 日本人 2万6478戸
商業 :朝鮮人 30万2704戸、 日本人 3万0725戸
交通業 :朝鮮人 4万6696戸、 日本人 9146戸
公務及自由業:朝鮮人 14万1572戸、日本人 6万6007戸
その他有業者:朝鮮人 34万6148戸、日本人 6731戸
無職 :朝鮮人 10万2249戸、日本人 7068戸]
その��の外国人が1万1478戸ありましたが省略しました。農業と水産業と商業の一部の行商人以外の職業は、日本統治時代に生まれた新しい職業であるといえます。農民が冬季に副業としてやっていた家内の仕事は、独立した職業といえる状態ではなかったと思います。1910年の日韓併合を経て、1939年には朝鮮に新しい経済システムができていたのです。このことは、1939年の朝鮮経済が次のように成っていることから明らかです。倍率は1910年比です。
払込資本金:60.9倍12億1187万円(現在価値24兆円)
貿易総額 :40.1倍23億9524万円(現在価値48兆円)
銀行貸出金:36.8倍15億0644万円(現在価値30兆円)
朝鮮人の誰も特定の職業に就くことを強制されていませんでしたから、これは誰でも自己の能力に応じて自由に参加できる資本主義経済システムであるといえます。この資本主義経済システムへは、朝鮮人が���本人の何倍も多く参加していましたので、日本が朝鮮から撤退しても急に消滅することはないと思われます。
以上が、日本が1876年に朝鮮と交流を持ってから1945年に撤退するまでの69年間に朝鮮に影響を及ぼして残した無形の事柄です。
なお、余談ですが、韓国に博物館を作り、韓国人に暗殺された伊藤博文公爵について、この暗殺をした人物を韓国は英雄として称えていますが、殺された伊藤博文公爵の朝鮮に関する考えを紹介したいと思います。
その一つは、新渡戸稲造の『偉人群像』に、伊藤公爵が語った言葉として、「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ」いっていたと記されています。このように、伊藤公爵は朝鮮人を高く評価し、併合には反対だと主張していました。そして、日清韓の連帯を唱えていました。日韓併合に反対していた伊藤が暗殺されてしまったために、その後、山県有朋の主導により日韓は併合への道を突き進むことになったのです。
二つ目は、近年発見された伊藤公爵の明治38年(1905年)11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていたことを裏付けるものだ」としています。しかし、伊藤公爵は暗殺されてしまいました。残念ながら、これが現実です。
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ひとみに映る影 第七話「紅一美に休みはない」
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(※全部内容は一緒です。) pixiv版
◆◆◆
ただただ真っ白な空と海があった。 天地を分かつ地平線すら見えないほど白いその空間に、私、ワヤン不動という影だけが漂っていた。
未だ点々と炎がちらつくその身体は、浅い水面に大の字に浮き、穏やかなさざ波に流されていく。 ここはどこだっけ、私はどうしていたんだっけ。 そういった疑問は水にさらされた炎と共に鎮静していった。
遠くに誰かがいる気配がした。軋む身体を起こすと、沖縄チックな紅型模様の恐竜が佇んでいる。 濡れて重たい両足を引きずり、そこに近づくにつれて、段々と海は深くなり、かつ水が温かくなっていく。 立ったまま胸まで浸かる程深くなると、まるで露天風呂に入っているように、頭がぼーっとしてくる。
恐竜の隣には小さな足場とベンチがあり、可愛らしい白装束を着た金髪ボブカットの女性が座っていた。 丸く神々しい後光がさしていて、顔は逆光でよく見えない。天女だろうか。 ベンチから足だけを温水に投げ出し、足湯を楽しんでいるようだ。私は水中からそれを見上げている。 (ああ…誰だっけこの人。どこかで会ったことがある気がするけど…) 挨拶するかどうか迷う。気まずい。いずれにせよ、何か声はかけよう。 ここはどこですか、とか、あなたは誰ですか、とか… 「…アガルダって、何なんですか」 いや、どうしてそうなるの。私。完全に変な人じゃん。 だめだ、頭が回らない。案の定天女は苦笑した。 「いきなり凄い事聞くよね」
「知らないんですか?金剛楽園アガルダ」 「あんただって知らないんじゃん。 まあでも…金剛有明団(こんごうありあけだん)っていう、なんかこう、黒魔術師達の秘密カルトがあるらしいよ。 世界中から霊能者の魂を収集してて、何かにつけて金剛、金剛ってウザい喋り方するんだって。それじゃない?多分」 「ああ。それですね」 「てか、そんなの聞いてどうするの」 「滅ぼす」 「ウケる」 天女はコロコロと笑った。
「ここは何なんですか」 「私の夢の中…それかあんたの夢かも? ま、どうでもいいんじゃない?」 「あなたも金剛の使者?」 「まさか。私だって昔、観音和尚様にはお世話になったんだよ?」 「え…」
逆光の影をエロプティックエネルギーでどかして、私は改めて天女の顔を見た。 ああ、そっか…金髪にしたんだ。中学の時はさすがに黒髪だったよね。 髪、そうだ、髪だよ。私はその天女…いや、その祝女に問うた。
「あのさ。どうでもいいけど…ゴムか何か持ってたりしない? さっきから髪がメチャクチャお湯に入ってるんだ」
◆◆◆
何の脈絡もなく目覚めると朝になっていた。 私は怪人屋敷エントランスのソファで眠っていたらしい。 サイレンや話し声が騒々しい。外光が射しこむ窓越しに、救急車や数台のセダンが見える。 「一二、三!」 救急隊員さん達が、担架からストレッチャーに何かを乗せた。白い布にくるまれた、岩のような何かの塊を… そうか。ああやって外に出せているという事は、全て終わったんだ。 私達は殺人鬼を見つけて、悪霊を成仏させて…たくさんの命を救ったんだ。
「あ…紅さん」 譲司さんがこちらに駆け寄る。 「紅さん起きましたーっ!」 <ヒトミちゃん!>「オモナ!ヒトミちゃーん!」 オリベちゃんとイナちゃんも…みんなボロボロだ。全身煤埃や擦り傷だらけの譲司さんに比べればマシだけど。 オリベちゃんに肩を借りて立ち上がると…バシン!私は超自然的な力に頬を打たれ、衝撃で尻餅をつく。 「リナ…」
「アナタ、ワヤン不動になって、何回死んだの?」 「…」 「何人分殺されたの」 殺人被害者達の死の追体験。あの時はハイになっていて恐怖を感じなかったけど、今思い出そうとすると、身の毛もよだつ感覚が鮮明に蘇る。 「うう…数えればわかるけどさ…」 「じゃあ、二度と数えないことね。 アナタは…ちゃんと生きて帰ってきたんだから」 「え?」 宇宙人体のリナは長い腕で私を影ごと抱きしめ、子供をあやすようにぐしゃぐしゃに頭を撫でた。 「良かった…。アナタの精神がアレと相打ちにでもなったら、アタシ観音和尚に顔向け出来ないもの…」 初めて見た、いつも気丈なリナの泣き顔。彼女は涙を流しながら、人間の姿に縮んだ。 それはとても綺麗だった。美人だった。
その後私達は警察やNICの職員さん達から聴取を受け、昼過ぎにようやく解放された。 水家曽良は表向き被疑者死亡で書類送検とされ、未だ脳細胞が活動し続けている遺体は研究対��としてドイツのNIC本部に収容されるらしい。 待ちに待ったお蕎麦屋さんに私達が到着した時、既にテレビではニュース速報が流れていた。 皆神妙な顔で画面に見入っていたが…
ぐぎゅるるるる…
私の腹の虫が重い沈黙を破った。慌ててトートバッグを抱きこんでも、もう遅い。 「くくく…やるなぁ、あんた…」 ジャックさんやリナの表情にじわじわと含み笑いが浮かんでくる。 普段なら恥ずかしいとか、タレントとしてはオイシイだとか思うけど、なんかもうダメだ。 ぐぎゅぅぅぅるるる…空腹と疲労と寝不足で、私はリアクションの一つも取れない。 「笑うなや。ワヤン不動様昨日飲まず食わずで、あんだけ働いてくれとったんやから。なあポメ?」 「わぅん」 譲司さんとポメちゃんの優しみ。有難い。 でも、すいません。もう限界です。糸が切れたように私はテーブルに突っ伏した。 <や、やだ、ヒトミちゃん!? ていうか何その手、ダイイングメッセージ!?> 霞む意識の中、私はお品書きを指さしていた。 最後の力を振り絞ってオリベちゃんにテレパシーを送る。 <お願い、こ、これを…注文して下さい…!> <いや、私日本語読めないんだけど。 イナちゃん、これ(鴨南蛮)なんて書いてあるの?> 「アヒルナンバン大盛り」 「かもなんばん!!」 なんかノリツッコミしたら自力で復活できた。 代わりにリナ、萩姫様、ジャックさん、譲司さんが抱腹絶倒した。
ようやく腹ごなしを済まし、私達は民宿に戻った。 荷物を下ろすやいなや、全員示し合わせたように脱衣所へ直行。 昨日も入った露天風呂だけど、めちゃくちゃ気持ちいい! 「あーーーー!染み入るーーーーっ!」 「本当よぉ!アナタ達バカだわ、せっかく磐梯熱海に来たのに、ちっともお風呂入らなかったんだもの!ねえ萩ちゃん」 「同感同感!イナちゃんは日本の温泉初めて?韓国の方々も温泉好きなんですってね?」 「そです、私達オンセン大好きヨ!気が清められるですねー!」 <うちの風呂もこれぐらい広かったらなぁー。そっちはどう、ジョージ?> すると衝立一枚隔てた男湯からレスポンス。 「pH結構高いなー!」 <いやダウジングしてどうすんのよ!> 「冗談冗談。あのねー!そもそも空気がめっちゃええの! 湯気で保湿されとるし肺まで癒されるわ!なあポメ?」 「あぉーん!」 ポメちゃんも上機嫌のようだ。
私も男湯に声をかけてみる。 「ジャックさーん!うちのおんつぁどうしてますー?」 おんつぁは会津弁でバカの意。実は、プルパ型に戻った龍王剣をさっき男性陣に預けたんだ。 霊泉と名高い磐梯熱海温泉を引っ掛ければ、あれも少しはマシな性格になりそうだけど、女湯に入れるのはさすがに嫌だったから。 「おう、同じ湯船に入れたくねーからよ、言われた通り洗面器で漬けておいたぜ。 真っ黒なのは治んねえな!ハッハ…うおぉ!?」 「わぁ!」「きゃわん!」 男湯で異変!女子一同がそれぞれタオルや霊能力を身構える。 「ど…どうしたんですか?ジャックさん!」 「い、いや、その…龍王剣の中から…」 「中から…?」 「アー…剣じゃなくて、持ち手からなんだがな…あんたの和尚が馬頭観音になって出てきた」 「はぁ!?」
そんな馬鹿な。和尚様は成仏されたはず。 まあ、既に観音菩薩になられた和尚様が『成仏』というのもおかしな話だけど…。 「ま、まさか観音和尚、お風呂入ってるの?裸!?」 リナが衝立を覗こうと飛び上がった。私は咄嗟に影手を伸ばし、阻止する。 「こらっリナ!和尚様の前でそっ、そんな破廉恥をっ!!」 「うるさいわね!いいのよアタシはインターセクシャルだから、どっちに入っても! これは美的好奇心であって猥褻な気持ちは一切ないわよ!」 「ヒゲと声以外ぜんぶ女のクセに何言ってるんだっ!やーめーなーさーいってのーっ!」 「アイタタタ、暴力反対!アナタだって本当は見たいんじゃないの?」 「んなわけあるか!!そりゃもう一度会いたいけど…っていうか小さい頃は一緒にお風呂入ってたもん!!」 「ずるい!このスキモノ!!」
すると衝立越しにヒョコッとポメちゃんが掲げられた。 もみ合っていた私達は不意をつかれて膠着する。 ポメちゃんの口には、何の異変も起きていない龍王剣プルパが咥えられていた。 「ハーイ、ドッキリ大成功!したたびでーす!」 譲司さんが裏声で腹話術する。 私とリナも、いつもテレビでやっているリアクションを返した。 「「…ぎゃーっ!また騙されたーーっ!!」」
そうこうしているうちに、また日が沈み始めた。 夕方五時。荷物やお土産をミニバンに詰めこみ、私達は民宿を後にする。 本当は猪苗代湖や会津方面の観光案内もしたかったけど、NIC職員のオリベちゃんや譲司さんが警察で事件の後処理をするため、私達はもう東京へ戻らなければならない。 そこでまず、萩姫様を大峯不動尊へ送りに行った。
「あんな事があったけど、また遊びに来てね」 萩姫様はまた正装である着物に戻っている。けど、帯飾りや例のロケットランチャー型ポシェットといった小物に、オルチャンファッションの影響が残った。 「もちろん、また来るですヨ。ハギちゃんがバリとか韓国来る時も私呼んで下さいね」 そう言うイナちゃんの耳にも、萩姫様を彷彿とさせる黒い紐飾りピアスが揺れる。 通りがかりに寄ったお土産屋さんで売っていたやつだ。 私達一同と固い握手を交わし、萩姫様はお社へ消えていった。
◆◆◆
車に戻ると、道路沿いに小さな原付屋台があった。 ポッ、ポポポポ…ガラスケース内で、ポップコーンが爆ぜている。バターの香りが漂う。 その傍らではエプロンを着たジャックさんが、フラスコ型喫煙具を吹かしていた。 彼は私達が戻ってきた事に気付くと、屋台についている顔とお揃いのマスクを被り、スイッチを入れる。 ブゥーン…屋台の顔に仕込まれたスピーカーから、電子的ノイズが漏れる。
「アー、アー。ポップコーン、ポップコーンダヨ…ヨォ、ガキンチョ共! ポップコーンダッツッテンダロオラ!ポップ・ガイノウェルシー・ポップコーンガオデマシダゼェ!」 ボイスチェンジャー声に合わせて、屋台の顔ポップ・ガイはガコガコと顎を上下する。 何でちょっと逆ギレ気味なのかはよくわからないけど、これが彼の定型口上文なのだろう。 「今日ハ閉店セールダ、トビッキリノポップコーンヲ食ワセテヤル。 マズハオ前ダ、紅一美!」 ガコンッポン!ポップ・ガイの顎が大きく開き、口から焼きたてのポップコーンが一粒飛び出した。 それは物理法則に反して浮遊し、私の手の中に落ちる…あっつ! 「ソラ食エ、騙サレ芸人!アッコラ、フーフースルナ!」 「だ、誰が騙され芸人ですか!…あつつ!」 ポップ・ガイにそそのかされて、私は熱々のポップコーンを口に運んだ。 …結構しょっぱい。そして胸焼けするほど油っこい。けど、麻薬的な美味しさ。 アメリカ人の肥満率が高い原因の片鱗に触れた気がする。
ポップコーンを嚥下すると、私の足元で、影が独りでに蛇の目模様を描いた。 「これは…」 見覚えがある。安徳森さん…ファティマンドラの種に見られる模様だ。 ジャックさんはマスクを被ったまま、スイッチを切った。 「そいつはファティマの目、トルコではナザール・ボンジュウと呼ばれるシンボルだ。 邪悪な呪いや視線を跳ね返し、目が合った悪しき魂を抜き取る力がある。 あのクソの脳内地獄で、安徳森が俺達タルパを保護するためにばら蒔いてたやつだ。 あんたが本気で金剛ナントカと戦うつもりなら、持っていけ」 蛇の目模様は影に沈んでいった。 つまりジャックさんのポップコーンは、彼の命を構成する欠片だったようだ。 「ありがとうございます」 私はファティマの目という霊能力を授かった。
ジャックさんが再びスイッチを入れる。 「次ハオ前ダゼ、ジョージ・アルマン!」 ガコンッポン!射出された新たなポップコーンは、譲司さん目がけて飛んでいった。 アルマンは、譲司さんがイスラエルに住んでいた時の旧姓だ。 「あっつ、はふっ…ん? …��ップコーン種総量に対してバターが七〇%、レッドチェダーパウダーが五%、更に米油が…って、嘘やろ!?こんなに油使うん!?」 「バッカ、この野郎!読み上げるんじゃねえ!企業秘密だぞ! 養護教諭になるなら美味いポップコーンの一つも作れねえと、ガキ共にナメられるだろ」 「せ…せやな…?けどこれ、食べさせすぎたらあかんやつや! ほどほどに振る舞わせて貰うわ、ありがと」 譲司さんが授かった魂の欠片は、ポップコーンの秘伝レシピのようだ。 いずれバリ島に遊びに行って、ご馳走になりたいな。
お次はオリベちゃんだった。 <うわ、確かに凄くジャンクな味だわ。 これは…ああ、懐かしいなあ…!> オリベちゃんは目を煌々と輝かせて、ぼーっと中空を眺める。 「ちょっとアナタ、何が見えてるの?一人で浸ってないで教えてよ、ねーェ」 リナがオリベちゃんの眼前で手を振った。 <ごめんごめん。あまり懐かしいものだから… 私が貰ったのは、これ。テルアビブ・キッズルームの、たくさんの楽しかった思い出よ> オリベちゃんが淡い紫色に発光し、周囲がテレパシー幻影に包まれた。
オーナメントやおもちゃで彩られたカラフルな家で、様々な脳力を持つNICの子供達が遊んでいる。 人形ジャックさんは、幽霊の女の子とアドリブで物語を話し合い、それを器用そうな男の子が絵本に綴る。 幼いオリベちゃんは、人に感情を与えるエンパス脳力者の女の子と、脳波をぶつけ合いながら睨めっこをしている。 その勝敗を判定しているのは、弱冠八歳で医師免許を持つ天才少年だ。 部屋の奥では彼らの様子を、二人の優しそうな養護教諭さんが暖かい視線で見守る。 「まあ。アナタ、子供の頃から素敵なファッションセンスしてたのね」 <もちろん!なにせテレパシー使いはシックスセンスが命だもの!> 「うふふふ」 こうしてリナと会話するオリベちゃんを見ると、彼女のキラキラした笑顔は子供の頃から変わらないものだったんだとわかる。 『出てこいよ、ジョージ。みんないるぞ』 長い髪のサイコメトラーの少年が、クローゼットの扉をノックした。 すると、中から…分厚い眼鏡をかけた小柄な男の子が、前髪で顔を隠しながら、遠慮がちに現れた。 「オモナ!ヘラガモ先生、とてもちっちゃいなカワイイ男の子だったの!」 イナちゃんが両手を頬に当てた。確かに子供の譲司さんは、精悍な今の顔からは想像がつかないほど可愛い。 というより、先程のサイコメトラーの少年…例の殺された『アッシュ兄ちゃん』の方が、大人になった譲司さんによく似ている。 この二人の少年の魂が混ざりあって、今の彼があるという話を、まさに象徴しているようだ。
「ねぇジャック、アタシ達にはないの?」 「わう!わう!」 リナとポメちゃんがジャックさんの周りをくるくる回る。 「ア?ドーブツ共ニヤルポップコーンハネエヨ、帰ッタ帰ッタ」 「馬鹿野郎、ポップ・ガイ。宇宙人のお客様なんて上客じゃねえか。無下に扱うんじゃねえぞ」 「ショーガネー、コイツヲ食ライナ!」 器用にポップコーン機構を操作しながらマスクスイッチを切り替え、ジャックさんが腹話術を披露する。 ガコンッポポン!射出された二粒のポップコーンはそれぞれ異なる軌道を描き、リナとポメちゃん目がけて飛んだ。 「先に言っておくとな。リナ、あんたには、水家の中にいたタルパ共の情報だ。 あいつは記憶を失った後も、金剛の呪いの影響で、無意識にあらゆる霊魂を脳内地獄に吸収していた。 人間だけじゃなくて、土地神やら妖怪やら色んな奴を吸い取っていたから、見ていて退屈しなかったぜ。 タルパを作るのがあんたの本能なら、何かの役に立つかもな。だが物騒な怪物だけは作るんじゃねえぞ」 「わかってるわかってるゥ!ああっ凄いわ! ツチノコからゾンビまで…あーっ妖怪亀姫もいるじゃない!」 妖怪亀姫って…猪苗代湖を守る神様の一人じゃん。 まさか、ハゼコちゃんが暴れた時に逃げ出して、そのまま水家に魂を奪われたとか!? 私、昨晩とんでもない方を成仏させちゃったかも…リナが福島の神々を再建してくれる事を祈るばかりだ。 「ポメラー子のは夢の中で発現する。フロリダの農村の記憶だ。 何も無くてだだっ広いだけのクソ田舎だと思っていたが、犬にとっちゃ最高のドッグランになるだろうよ」 「ほんま最高やん!良かったなあ、ポメ。俺仕事さっさと済ますから、今夜は早く寝ような」 譲司さんがポメちゃんの頭を優しくなでた。ポメちゃんは黙々とポップコーンを食べている。 彼女と譲司さんが夢の中の大自然で駆け回る、微笑ましい光景が目に浮かんだ。
「じゃあ、最後はお前か」 ジャックさんがイナちゃんを見る。でも、イナちゃんは目を逸らした。 「私いらない」 「あ?」 マスクスイッチをオン。 「バカヤロー、オ前。俺ノポップコーンガ食エネエッテカ? 安心シロ、幽体デデキテルカラ、カロリーゼロダゾ」 「いらないもん」 「アァ!?」 スイッチオフ。 「何なんだよ?」 「だって…食べたらジャックさん消えちゃう」 「!」
ジャックさんとポップコーン屋台は、既に薄れかけていた。 自分の魂を削って私達に分け与える度に、彼は少しずつ摩耗していったんだ。 ジャックさんがマスクを脱いだ。 「あのな、俺は二十年以上前に殺されたんだ。もうとっくにいない筈の人間なんだよ。 だから、そんな事気にするな」 「ウソ。じゃあどうして、ジャックさんずっと成仏しなかった? 本当は、オリベちゃん達が見つけてくれるの待てたでしょ」 「…どうだかな」 「せかく会えたなのに、どうして消えなきゃいけない? これからオリベちゃんの子供育つを見ればいい、これからヘラガモ先生バリで頑張るを、傍で見守ればいい! どうしてあなた今消えなきゃいけない!?」 イナちゃんが握りしめた両手が、ジャックさんの���を無情にすり抜ける。 ジャックさんは掠れた幽体でその手を優しく掴んだ。 「イナ」 「!」 そして、初めて彼女を名前で呼んだ。
「霊魂が分解霧散する事を、仏教徒共がどうして成仏だなんて呼ぶか知ってるか? 役目を終えて砕け散った魂は、エクトプラズム粒子になって、自然界に還る。そして、新たな生命に吸収される。 宇宙の営みってやつだ。宗教やってる連中にとっちゃ、それは宇宙や仏と一つになる、尊い事なんだそうだ。 俺は既にジャック・ラーセンじゃねえ。クソ野郎に霊魂を切り貼りされた、人工のクソ怪物だ。 それでも…お前みたいなガキの笑顔に弱い性格は、生前と変わらなかったんだよなあ…」
ジャックさんの目から涙が零れ始める。彼の霊魂が更に希薄になっていく。 「…オリベ。ジョージ。俺の事…諦めずに見つけてくれて、ありがとう。 おかげで、お前らと遊んだ記憶をまた思い出せた。 歪な関係だったけど…短い時間だったけど…クソ楽しかったよな。 …なあ、イナ。そんな顔するなよ。魂を清めるのが、お前の力なんだろ? だったら祈ってくれよ。俺が世界中に飛び散って、宇宙と一つになって、もっともっと沢山のガキ共を笑顔にできるように。 綺麗な花を咲かせる生命力になって。人間を動かすハッピーな感情になって。…最高に美味ぇポップコーンになって。 スリスリマスリ…って、祈ってくれよ。頼む…!」 ガコンッ!コロロロ…ぼろぼろに涙を零し、声をきらしながら、ジャックさんは最後のポップコーンを作った。 それはポップ・ガイの口から力無くこぼれ落ち、イナちゃんの足元を転がる。 「…頼むよ…」
イナちゃんはしゃがみこみ、そのポップコーンをそっと拾い上げた。 それはもはや喫煙具から立ち昇る煙のように、今にも消えてしまいそうな朧な塊だった。 「スリスリマスリ。スリスリマスリ」 ポップコーンはイナちゃんの両手に優しく包み込まれ、そのまま彼女の魂に溶けた。 「…それでいい。カナヅチは今日で卒業だ。もう溺れるんじゃねえぞ」 「ウン」
「イナ」 抱き合って、ぼろぼろに泣く二人。イナちゃんは顔を上げた。 薄れ行くジャックさんが、半魚人から人間の顔になる。 水家に似せられた髪型や背格好。ただ、彼はよりがっしりとした体格で、首が太く、彫りの深い黒い目を持つインド・ネパール系人種の男性だった。 「ジャックさん」 「…おっと、違う。これじゃねえ。これも作られた顔だったな」 魂がほぐれていくにつれ、より深層に眠っていた、彼の自意識があらわになる。 ジャックさんは、ジャック・ラーセンさんは、私達の前で初めて素顔を見せた。
「アイゴー…!」 「な、諦めがついたか?俺みたいなチンピラにこだわってねえで、もっと良い男を見つけろよ、イナ」
最後にそう言って、ジャック・ラーセンさんは分解霧散した。 本来の彼は…殺人鬼の言う通り、確かにちょっと魚っぽかったかも。 全身を鱗のような細かいタトゥーで覆い、オレンジ色に染めたモヒカンを側頭部に撫で��け、ネジや釘が煩雑に飛び出した屋台やマスクと同じようにピアスまみれな… 言うなれば、ポップ・ガイのお父さんみたいな人だった。
こうして、私達は熱海町を後にした。 リナは千貫森に帰り、タルパ仲間と共に福島のパワースポットを復興する。 オリベちゃんは水家の遺体と共にドイツへ飛び、譲司さんはバリ行きを延期して警視庁公安部に向かう。 その間、イナちゃんは私の家に泊まって待機する事に。私の次のスケジュールは…連ドラ『非常勤刑事(デカ)』のロケで福井へ行くのが、明明後日。それまでは自由だ。 そして明日は私の誕生日!やっとイナちゃんと渋谷や原宿で遊べるぞ。 私はそう思っていた…渋谷スクランブル交差点にあのロリータ服の悪魔が現れるまでは。
◆◆◆
十一月六日、正午〇時。 ヴー、ヴー…トートバッグ内でスマホが震えた。画面には、『イナちゃん』。 「紅さん鳴ってるよ、ほら出てあげなさいよ」 ディレクター兼カメラマンのタナカDが、ファインダーを覗いたまま言う。 私は不貞腐れて電源を切った。 「二十歳になったのに、まだまだ大人げないなー。ま、ヘリコプターは機内モードってのも正解だけどね」 座席にふんぞり返ったアイドル、志多田佳奈さんが言う。 「私はヘリに乗せられるだなんて聞いてないです。 どうして誕生日にこんな所にいなきゃいけないんですか」
ここは東京上空千メートル、小型ヘリコプターの中。 だいたい私は非常勤刑事のロケで福井に行くんじゃ…多分、それすら事務所が用意した偽スケジュールなんだろうけど。 今度、ドラマ主演の伶(れい)先輩に言いつけてやるんだから! そもそも、どうしてこんな事になったのか。それは遡ること二時間前。
私はイナちゃんを連れて、竹下通り(たけしたどおり)でウインドウショッピングをしていた。 あそこはロリータファッションの聖地で、個人的にロリータにはあまり良い思い出がないから、普段足を踏み入れる事は無い。あくまで観光地だから連れて行くんだ。 そう思っていたけど、実際に行くと、普通に楽しかった。 猫の額ほど狭い路地に、各種ファストファッションの直営店から、煩雑なノーブランド品を売るセレクトショップまで所狭しと詰め込まれている。 更に中空には、死後ポップな姿を取るようになった霊魂や、人々の感情の結晶らしき可愛いモンスター、誰かが作ったマスコットタルパなどがひしめき合い、イナちゃんがそれを見て飛び跳ねながら歓喜する。 さながら多感で繁忙な思春期の女子高生の心を、そのまま結界にしたようなカオス空間だった。
服やアクセサリーなど、両手に戦利品入り紙袋を大量に持って、私達は電車で渋谷駅へ。 (この時、やたらめったら嵩張るロングブーツを二足も買って後悔したのは、言うまでもない。) そのまま観光を続行するのは難しいため、荷物は駅中にある宅配サービスカウンターに預ける事に。 ついでにイナちゃんが、コインロッカーからスーツケースを取り出し、それもバリへ配達して貰えるように手続きしたいと言う。
「テンピョウ書けました、お願いします」 「はい、少々お待ち下さい」 私はカウンター脇でイナちゃんが送り状を預けるのを眺めていた。 スーツケースの分と、原宿で買った荷物分。 「あと、これもお願いします」 「はい、かしこまりました」 ん、もう一枚?覗きこんでみると、そこにはこう書かれていた。
『お届け先 ゆめみ台 志多田佳奈様 品名 紅一美 ナマモノ/コワレモノ/天地無用 お届け希望日 今日 したたび通運』
『ヌーンヌーン、デデデデデン♪ヌーンヌーン、デデデデデン!』 天井スピーカーから阿呆丸出しなイントロが聞こえてくると同時に、私は条件反射でイナちゃんを置いて宅配カウンターから逃走していた。
『ヌーンヌーン、デデデデデン♪ヌーンヌーン、デデッデーン!』 階段を下り外に出る。こんなところで捕まってたまるものか。
『背後からっ絞ーめー殺す、鋼鉄入りのーリーボン♪』 出口付近にある待ち合わせスポット、モヤイ像が見えた。 …奇妙な歌を垂れ流すスピーカーと、苺の髪飾り付きツインテールが生えている。あのロリータ悪魔のシンボルが。私は血相を変えて更に走った。
『返り血をっさーえーぎーる、黒髪ロングのカーテン♪』 私を嘲笑うアイドルポップと、ただただスマホカメラを向ける無情な喧騒。 それらはまるで、昨日までの旅を締めくくるエンディングテーマのようだ。 但し、テレビ番組ではエンディング後に次回予告が入る。
『仕込みカミッソーリー入りの、フリフリフリルブラーウス♪』 そして次回が来たら、また過酷な旅に出なければならない。 嫌だあああぁぁ!行きたくないいぃぃ!! 私はイナちゃんと渋谷で遊んで、お誕生日ケーキを食べて、空港に見送りに行って、お家に帰ってゆっくり寝て、福井で女優をするんだああぁぁぁ!! ていうか考えてみたらイナちゃんもグルだったあああぁぁぁ!!!裏切り者おおおぉぉぉぉ!!!
『防刃防弾仕ー様の、コルセットーもー巻ーいてる♪』 スクランブル交差点に、爆音を撒き散らすアドトラックが現れた。…天井に、なんか生えてる。 『…ご通ぅぅぅ行ぉぉぉ中の皆様あああぁぁ!!』 渋谷駅に響き渡るロリータ声。諸行無常の響きあり。 ドゴッ!…体が乱暴にすくい上げられたような浮遊感。背後を振り向くと、宅配業者制服の男達が私を神輿みたいに担ぎあげている。 「オーエス!オーエス!」 『こんにちはァー、したたび通運でーーーす!!』 私はあれよあれよとスクランブル交差点へ運ばれ…トラックに���荷された!
『あーあー♪なんて恐るべきー、チェリー!キラー!アサシンだ!』 「何!?何!?何なんですか!!?」 男達が私に何かを背負わせ、トートバッグごとベルトで固定していく。 目の前では、いつの間にか宅配業者制服に着替えたイナちゃんが敬礼している。 「ヒトミちゃん、したたび通運空輸便だヨ!」 「え?は?は!?」
『破壊されしーオタサーからー…』 トラック天井に運ばれる。棒とロープが生えたバルーンクッション。 ああ。空輸便って。察した。『…遺族ーのー声はー確かに届ーいたー♪』
…わたし 童貞を殺す服を着た女を殺す服を作るよ もっともっと可愛くて 殺傷力も女子力も高い服を…
サビに差し掛かったアイドルポップが遠ざかっていく。 私は…飛んだ。逆バンジージャンプで射出されて、渋谷のど真ん中で空を舞った。 あーあ、結局また騙された。ばーかばーか。テレビ湘南に水家曽良の腐乱死体送りつけてやる。ばーかばーか。
そして無限にも思える長い一瞬の後、私は再び渋谷の地へ…落ちず。 なんとそのまま、上空を旋回していた小型ヘリに空中で捕縛され、拉致されてしまったのだ…。
「はーい、ドッキリ大成功!毎度おなじみ、志多田佳奈のドッキリ旅バラエティ、したたびでーす!」 放心状態の私をよそに、悪魔的極悪ロリータアイドル、志多田佳奈さんが『ドッキリ』と書かれたプラカードを掲げた。 異常が、事の顛末だ。(これは誤字じゃない。異常なんだ。) 「ちなみに今回のドッキリは視聴者公募で、ペンネーム『ビニールプール部』さんのアイデアをやらせて頂きました!ありがとうございました~!」 「何が視聴者公募ですか。あんた達全員ビニールプールに沈めてやろうか!? だいたい、どうしてイナちゃんまでグルなんですか!」 「あの子はねぇ」 タナカDが画角外から、私と佳奈さんの会話に割って入る。 「昨夜SNSに紅さんと福島観光してる写真をアップしてたから、アポを取ってみたら、あっさり快諾してくれてですね。 今日あなたが渋谷に行く事も洗いざらい教えてくれたよぉ。『カナさん一番好き日本のアイドル!』とか言ってね」 げ、そうだった!忘れてたあああぁ!! 宅配サービスカウンターに行くのも予定調和だったのかあぁぁ!! 「目的地に着いたら電話かけ直してあげなさいよ」 「目的地じゃなくて渋谷に帰して下さい」 「そう言うなよ、一美ちゃん。 今日から記念すべき新企画が始まるんだから」 「新企画?」
佳奈さんが座席の下からフリップを取り出す。 おどろおどろしいフォントで『調査せよ!綺麗な地名の闇』と書かれたフリップを。 「じゃじゃーん!新企画、『綺麗な地名の闇』!」 「何ですか、物騒な…」 「一美ちゃんはさ、ゆめみ台って行ったことある?」 「ゆめみ台?電車の乗り換えで通った事ぐらいはありますけど」 「ゆめみ台の旧地名は知ってる?」 「知らないです」 「ジャジャン!これです」 佳奈さんがフリップ上の『ゆめみ台』と書かれたポップなシールをめくる。 するとネ��ポジ暗転カラーで『蛇流台』と書かれた文言が現れた。 「じ…じゃりゅうだい…」 「蛇流台a.k.a.(アスノウンアス)ゆめみ台は、元々土砂崩れが起きやすい場所だったんだって。 だから今は人が住めるように整備されて、ゆめみ台って綺麗な地名になった。 それって涙ぐましい努力の歴史だと思わない?」 「はぁ」 「そこでね!この企画では、そーいう一癖あるスポットのいい所も暗部も、体を張って紹介していけたらなーって思うの! というわけで一美ちゃん、今日はゆめみ台国立公園でロッククライミングね」 「ああはいはい…はい!?」 「大丈夫!もう蛇流台じゃなくてゆめみ台だから崩落しない!」 「それ以前の問題です!ロッククライミングなんてやった事ないですよ!? どーして突然拉致されて、挙句崖まで登らなきゃいけないんですか!? 私まだ一昨日までの疲れが抜けてないんです!!」 「え?一昨日まで何してたの?」 除霊…とはさすがに言えない。 「…徹夜で…別番組の、廃墟探索ロケ」 「あ、その企画いいね」 しまった!鬼に金棒を与えちゃった! 「い、いえ、私はクライミングがいいな!その方が健康的だし!」 「ひょっとして一美ちゃん、お化けが怖かったのかい?」 「うるさい!」 カメラ外からタナカDにチャチャを入れられた。 怖いも何も、実際は私が分解霧散させちゃったけど。 そんな事より…
私はフリップ下部に書かれた幾つかのご当地ゆるキャラ達を見ていた。 ゆめみ台の物と思しき台形のパジャマ姿の子や、他にも鳩みたいなもの、犬みたいなものもいる。 その中に一つだけ異質な…毛虫らしきキャラクターを見て、私は戦慄を禁じ得なかった。 灰色の毛、歯茎じみた肌、潰れた目、黄ばんだ舌… 似ている。金剛倶利伽羅龍王に、あまりにも似ている。 「佳奈さん。この下に描かれたゆるキャラ達…まさか、今後これ全部まわるんですか?」 「ん?知ってるキャラがいた?」 どうやら…私に休息の時はないみたいだ。 これもイナちゃんが導いた、『気』の巡り合わせなのかもしれない。
金剛有明団、きっとすぐ近い将来相見える事だろう。 私はトートバッグの中で、静かにプルパ龍王剣を燃やした。
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■日本メディア検閲史 <新聞法、出版法について> | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト http://www.maesaka-toshiyuki.com/massmedia/3838.html
静岡県立大学国際関係学部教授 前坂 俊之
われわれは今、「言論の自由」を、ごく当たり前のことと思っている。 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(憲法21条1項)、「検閲は、これをしてはならない」(同2項)という日本国憲法の条文を、わざわざ引き合いに出すまでもなく、当然と受け止めている。
しかし、1945(昭和20)年8月の敗戦まではそうではなかった。それ以後の連合軍による占領期間中も、言論の自由は制限されていた。 明治以来、メディアに対する検閲制度は昭和の敗戦まで約80年間続いた。
現行憲法でわざわざ検閲禁止の規定が盛り込まれているのは、この検閲の歴史の反省が込められている点を忘れてはならない。
検閲は表現の自由への公権力の規制の形式的、方法的問題であり、たんに文章や表現をチェック、削除する狭い範囲で考察するのではなく、広く言論統制、情報操作の一側面としてとらえることが必要である。 この「メディアと検閲」の章では、そうした観点から、主に日本でのメディア検閲の歴史的な関係について触れたい。
■1 言論の自由と検閲制度・ミルトンらで言論の自由の確立へ
秦の始皇帝(紀元前259-210年)の「焚書坑儒」を引き合いに出すまでもなく、歴史のなかであらゆる政治権力は、自らと対立する都合の悪い言論、思想を抑圧、弾圧の対象としてきた。
ギリシャ、ローマ時代はいうにおよばず、中世キリスト教の異端審問など、言論の抑圧が続いた。一五世紀の活版印刷の発明がエポックとなって、大量印刷や伝達が可能となり、マスメディアが生まれ、これを抑圧する手段としての検閲も一層、組織化、制度化され、近代検閲が生まれた。 大量に、スピーディに、安く印刷できる革命的な活版印刷の発明は、異端の広がりに厳重に目を光らせていたローマ教皇庁に衝撃を与えた。
グーテンベルクが活版印刷を発明したドイツ・マインツで、大僧正ベルトルドが1486年に出版物を取り締まるため検問所を設けたが、これがいわゆる「検閲制度」のはじまりである。 活版印刷の発明は中世ヨーロッパの宗教社会の内部から宗教対立を激化させる要因となり、宗教改革を生み、ついには市民社会の誕生の契機となったのである。 1501年には、ローマ教皇アレキサンダー六世が出版の許可主義をとった。さらに1542年には、ローマ教皇パウロ三世がカトリックに反対する出版物に対して、異端審問所の許可をとっていないものについては発行、流布を禁止した。 言論、出版の自由の歴史はこうした検閲制度との不断の戦いの歴史であり、その上に勝ちとられたものであった。
イギリスでは1586年に星室庁(当時の最高司法機関)が印刷条例をつくり、検閲を実施したが、これは後に長期議会に引き継がれて、1643年に検閲条例が定められた。 封建主義、絶対主義社会の象徴としての検閲に対して、言論、出版の自由の要求が生まれてくるが、その先駆者がミルトン(1608-74年)である。
ミルトンは『アレオパジテイカ』(許可なくして印刷する自由のためにイギリス議会に訴えるパンフレット)で「……真理と虚偽とを組打ちさせよ。自由な公開の勝負で真理が負けたためしを誰が知るか」、「他のすべての自由以上に、知り、発表し、良心に従って自由に論議する自由を我にあたえよ」と書き、言論の自由を強く訴えた。(内川芳美「新聞の自由の歴史」 稲葉三千男・新井直之 編著『新版新聞学』日本評論社、1988年、40頁)。 ミルトンは検閲条例をきびしく批判し、思想は抑圧されず自由に公開、競争される「思想の自由市場理論」と、そうすれば人間の正邪を判断できる理性によって、真理が必ず勝ち残るという「真理の自働調整作用」を唱えた。 こうしたミルトンらによって、イギリスで特許検閲法が廃止されたのは名誉革命後の1695年のことであり、新聞、出版の自由が制度的に確立されていった。
■2 徳川時代の検閲制度
一方、日本ではどうであったのだろうか。
徳川時代中期から出版業が盛んになってくるが、幕府は1630(寛永7)年にキリシタン関係書の売買、閲読の禁止に乗り出した。 1649(慶安2)年には、大坂の書店・西村伝兵衛が出版した『古状揃』のなかに「家康表裏之侍太閤忘厚恩」という徳川家康を誹語する文句があったことから、幕府はこの書物を没収、絶版の処分にし、伝兵衛は斬首の刑となった。 新開の前身である「読売瓦版」に対しては貞享、元禄年間の禁令をみると、検閲がおこなわれていた事実がみられる。 1722(享保7)年には、出版に関するはじめての成文法といってよい『町触れ』(現在の法律)が出された。 内容は猥褒や異説を唱えるもの、徳川家の事蹟に関する記事について禁止したほか、板本の奥づけに作者と板元名を記すことを定めたものであった。
このように、すでに江戸時代からはじまった出版物取り締まりの基本的な考え方は、明治になっても踏襲された。
■3 明治の新聞の誕生と言論恐怖時代の幕開け
ところで、日本での新聞の始まりは幕末の翻訳新聞、外字新聞である。
幕府の洋書調所にいた洋学者たちの翻訳によって新聞づくりがはじまった。当時は新聞、雑誌の区別はなく、この洋書調所から雑誌も翻訳雑誌として生まれた。 当初、このように幕臣による新聞が多かったため、鳥羽伏見の戦い(1868年)、江戸への薩長軍の進軍に対しては佐幕派の新聞が多数発行され、官軍を攻撃する記事や虚偽の報道、風説を流し、幕府の味方をした。 柳河春三「中外新聞」、福地源一郎「江湖新聞」、岸田吟香「もしほ草」など多くの“佐幕派新聞”に対して、明治政府は、はじめて言論弾圧に乗り出した。
1869(明治2)年2月、政府はわが国で最初の新聞紙法である「新聞紙印行条例」を発布した。 発行を許可制にし、編集者の責任を定め、政治評論を禁止するなどの内容であった。
1874(明治7)年1月、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らが『民撰議院設立建白書』を提出したことから、自由民権運動がまたたく間に全国に広がった。 新聞はこれを支持する民権派が多数を占め、そのなかで急進派と漸進派に分かれ、これに反対の立場の官権派が入り乱れて激しい論戦を展開し、“言論の黄金時代”を迎えた。
言論界では急進的民権派が圧倒的多数を占め、反政府運動と化したため、政府は1875(明治8)年6月に「新聞紙印行条例」を大改定した「新聞紙条例」と、新たに「讒謗律」をセットで公布した。 讒謗律は 名誉毀損罪と政治的誹謗罪が一緒になったような法律で、天皇、皇族、官吏に対する誹謗を防ぐというねらいだが、実際は反体制的言論を規制し、弾圧するのが目的であった。 言論界にとってこの両法は正に青天の霹靂であり、一大ショックを与えた。 まず「曙新聞」の末広鉄腸が、これに触れて罰金20円、禁獄3ヵ月に処せられたのをはじめ、各社の記者が続々と処罰され、獄中は新聞記者や編集者であふれかえる事態となった。 宮武外骨の調査によると、5年間でこの両法によって記者、編集者約200人が禁獄されるという“一大言論恐怖時代”を現出した。 しかし、これでも自由民権連動の大きなうねりを止めることはできず、逆に高まる一方であった。
このため、翌76(明治9)年に政府は「国安ヲ妨害スト認メラルル者ハ、内務省二於テ、ソノ発行ヲ禁止又ハ停止スヘシ」という太政官布告を出した。 この規定が「安寧秩序ヲ妨害」したものに対して「発売頒布禁止権」を行使するという出版警察の中核的な行政処分権となり、敗戦までの約七〇年間にわたり言論の自由の生殺与奪となったのである。[奥平康弘、1983、137-138頁]。
さらに、明治政府は帝国憲法の発布(1889年2月)に照準を合わせ、1887(明治20)年に「新聞紙条例」、「出版条例」を改定し、取締法規を整備、強化した。 「新聞紙条例」では内務大臣の発行禁停止権、保証金制度、陸海軍両大臣の記事差止権、その他掲載禁止事項などが定められ、一方、「出版条例」では発行10日前に製本3部を内務省に届け出ることが義務づけられた。
1889(明治22)年2月発布の帝国憲法では、「言論の自由」については「法律ノ範囲内ニ於テ言論、著作、印行、集会、及結社ノ自由ヲ有ス」(第29条)とされ、「新聞紙条例」、「出版条例」、「保安条例」、「集会条例」の4つの言論統制法の範囲内での制限つきの言論の自由しか認められなかった。
労働運動、社会主義運動が高まった1900(明治33)年2月、片��潜、安部磯雄らによって「社会主義研究会」が発足した。政府は集会、結社の取締法の集大成である「治安警察法」を制定して、きびしい取り締まりに当たり、翌年5月に片山、安部、幸徳秋水ら6人で結成された「社会民主党」は、即日解散となった。 1903(明治33)年2月、日本で初の社会主義新聞「平民新聞」(週刊)が幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎らによって創刊された。日露戦争に対して非戦論を主張した同紙は官憲によってきびしい弾圧を受けた。同20号の幸徳の「鳴呼増税」が新聞紙条例に違反、発禁が相次ぎ、創刊一周年記念号に『共産党宣言』が翻訳掲載され、再び発禁となり、3人は起訴され、有罪となり1905(明治38)年1月に64号で廃刊に追い込まれた。
■4 大正の大阪朝日新聞「白虹事件」
大正デモクラシーの高揚は憲政擁護、閥族打破、言論擁護の運動でもあった。その中心的な役割を果たしたのは民衆とともに、新聞であった。大正はじめに政党と結び、憲政擁護で第3次桂内閣を倒した新聞は、今���は民衆と歩調を合わせ、寺内内閣との対決姿勢を強めた。 寺内内閣の非立憲的な態度は、新聞への姿勢でもかわらず弾圧的態度に終始した。
シベリア出兵問題(1918年)、米騒動(同年)に対して発禁を連発、とくに、米騒動に対しては一切の報道を禁止したため、『春秋会』(新聞社の社交クラブ)は「言論の自由への圧迫」として再々にわたり、取り消しを求めたが、寺内内閣は応じなかったため、内閣打倒へ立ち上がった。
1918(大正7)8月25日、寺内内閣糾弾の関西新聞社大会が大阪・中之島で開かれた。 村山龍平・朝日新聞社長を座長に関西の新聞、通信社など計86社約170人が集まって開催され、「大阪朝日新聞」は同日夕刊(26日付)社会面のトップで次のように報じた。
「我大日本帝国は今や恐しい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。 『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として…‥」
この記事の「白虹日を貫けり」が問題化し、日本の言論史上に残る一大筆禍事件「白虹事件」へと発展していった。 「白虹日を貫けり」とは中国の故事で、白い虹が太陽を貫いて見えるときは、国に内乱が起きるしるしであるという意味だが、当局は「日」が天皇をさし、不敬に当たるといいがかりをつけて、記者と編集発行人を新聞紙法違反(安寧秩序素乱)で起訴、2人は禁固2ヵ月の有罪となった。 かねてより、当局は政府へ批判的な「大朝」の弾圧の機会をねらっていたのである。 この事件で鳥居素川���長谷川如是閑、大山郁夫らの編集幹部が総退陣し、村山龍平社長も退陣した。『大阪朝日新聞』は廃刊の危機を迎えたが,当時の原首相は上野理一社長を呼び、編集方針の変更などの釈明を聞いた上で、発行禁止を見合わせた。 この事件をきっかけに、新聞自体の批判精神は低下して、新聞の企業化が一層進んでいった。
■5 出版警察の核心・検閲は発売頒布禁止で
戦前の日本の検閲制度、出版警察の核心は 原稿検閲制による発行禁止ではなく、世界にも類例のない 内務大臣による発売頒布禁止であった。
政府は西欧ブルジョア主義の「出版の自由」を認めず、大量印刷物の流通に対して事前検閲をすることは実際上不可能であるため、ときに応じて権力を行使できる発売頒布禁止を導入したのである。[奥平康弘、1983.132頁]。 この発売頒布禁止権は新聞紙法第23条、出版法第19条でそれぞれ定められていたが、司法審査から独立した絶対的なものであった。 さらに、内務大臣が行使するこの権限は中央集権警察組織下で実質は地方の末端警察が握り、より一層、恣意的に運用、処分がおこなわれたのである[奥平、1983、160-161頁]
■6 検閲の基準は当局にとって伸縮自在の弾力運用
では、具体的な検閲の基準はどのようなものであったのだろうか。 当局が新聞紙法第23条、出版法第19条での「安寧秩序素乱」、「風俗壊乱」と規定する基準一検閲担当官が参考にしたものは次のようなものであった。
●【安寧秩序素乱出版物の検閲基準】(一般基準) ▽皇室の尊厳を冒涜する事項 ▽君主制を否認する事項 ▽共産主義,無政府主義等の理論、戦略、戦術を宣伝し、その連動実行を煽動し、この種の革命団体を支持する事項 ▽植民地の独立運動を煽動する事項 ▽非合法的に議主義会制度を否認する事項 ──など計13項目であった。
●【風俗壊乱の検閲基準】 ▽春画淫本 ▽性、性欲又は性愛等に関する記述で淫猥、羞恥の情を起こし、社会の風教を害する事項 ▽陰部を露出せる写真、絵画、絵葉書の類 ▽陰部を露出せざるも醜悪、挑発的に表現された裸体写真、絵画、絵葉書の類 ▽男女抱擁、接吻(児童を除く)の写真、絵画、絵葉書の類 ──などであった。(以上、内務省警保局『昭和五年中における出版警察概観』)
この基準に基づく適用については取締当局によって伸縮自在の「弾力性」をもっていた。 大正時代には-時縮小した禁止範囲は、1932(昭和7)年以降、再び急速に拡大し、社会主義、労働運動に関する著作は以前にましてきびしい取り締まりにあった。 安寧秩序素乱の取り締まりの場合は1920年代に一時禁止基準はゆるむが、30年代になると再びきびしくなった。(油井正臣 他『出版警察関係資料解説・総目次』不二出版、1938年、24頁)。
こうした発売頒布禁止制度とともに、内務省は超法規的な記事掲載差し止めをおこなった。 これは重大事件が起こったとき、この記事を掲載すると発売禁止になるぞ、とあらかじめ警告するもの。新聞側は発禁による不測の損失をまぬがれるために歓迎し制度化したが、もともとは新聞紙法上でも認められた処分ではなかった。 この“差し止め処分”は禁止事項の軽重によって、
① 示達/当該記事が掲載されたときは多くの場合、禁止処分に付すもの。 ② 警告/当該記事が掲載されたときの社会情勢と記事の態様いかんにより、禁止処分に付すかもしれないもの。 ③ 懇談/当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。
以上の3種類があり、「懇談」は少なかったが、「示達」、「警告」は乱発された。これに触れること、発禁などを受けるため、無視できない。 さらに、これ以外にも、便宜的処分として発禁処分にするほどでない場合は該当の部分のみを切除する「削除」処分や注意だけの「注意」処分もあった。削除処分は1933、34(昭和8、9)年に年間200件、注意処分は1932(昭和7)年には約4,300件に達した。
■7 15年戦争と幕開けと言論統制の強化
1928(昭和3)年3月15日には日本共産党に対する一斉検挙のいわゆる“三・一五事件”によって、労農党の関係者ら千五百数十人を検挙し弾圧を加えた。 「新聞紙法」、「出版法」による発禁件数は一挙にはね上がっていく。
1931(昭和6)年9月、日本軍による満州事変の勃発で、中国への侵略、十五年戦争の幕が開く。言論統制は一段ときびしくなっていく。 「安寧秩序素乱」による新聞、出版の発禁件数は翌32年には4,945件と1926(昭和元)年の412件の12倍にも激増して、ピークに達した。
満州事変以降のファシズム化の過程でメディア統制の一つの特徴は新聞紙法、出版法を補完、併用する形で、他の諸規定が利用された点である。 たとえば、出版法による発禁処分に該当しない街頭での選挙ポスター、ビラの類にも、治安警察法(1900年)第16条での往来などでの表現の自由を取り締まる規定を適用するように内務省警保局は指示。これはレコードにも拡大適用され、従来は各府県ごとに任されていた取り締まりが1932(昭和8)年10月から、内務省によって統一的におこなわれ、事実上、レコードの発禁処分をおこなった。 翌34(昭和9)年8月の出版法改正によって、レコード類は出版法による発禁、差し押さえの対象となった。レコードの取り締まりの内容は圧倒的に風俗取り締まりが中心で、兵隊漫才が「軍の統制紀律をみだす」などとして取り締まられた。
1937(昭和12)年7月に、日中戦争が起きると、新聞紙法第27条が発動された。 「陸海軍大臣、外務大臣は軍事・外交の記事の禁止、制限をすることができる」という内容で、陸、海軍省令、外務省令で記事掲載が制限された。
■8 検閲から総合的な言論統制へ
日中戦争による本格的な臨戦体制から、マスメディア統制も従来の検閲という消極的な抑圧統制から、国民を積極的に戦争体制に協力、同調させていく方向へ転換、情報操作、プロパガンダ機能を重視した稔合的な組織、体制づくりがおこなわれた。
1938(昭和12)年4月、国家総力戦を目指した準戦時体制の国家総動員法が公布されると、メディア統制も事業面から休止、合併、解散の命令(同16条)という生殺与奪の権限が政府に握られることになった。 記事掲載の禁止、制限という言論面だけでなく、企業体としての生存にかかわる心臓部を押さえられ、その後におこなわれる新聞の統廃合、一県一紙への道を開く結果となる。
さらに、積極的なプロパガンダ体制づくりとしておこなわれたのは、内閣情報局と国策通信会社「同盟通信社」 の組織、設立である。 1936(昭和11)年1月に「電通」、「連合」の両通信社を強引に合併させて「同盟通信社」を誕生させた。内閣情報委員会が万難を排して、合併、同盟発足のために協力した。 政府は世論指導の中心に、この同盟を置き、毎年莫大な交付金を与えて、朝日、毎日、読売などの大手中央紙を巧妙に牽制しながら、言論統制を推進したのである。
情報宣伝システムはさらに太平洋戦争へ向けて整備され、言論統制の最終的な決め手となったのが、用紙統制であった。 戦時体制が進行するなかで、不要不急品の制限という目的で用紙割り当てがおこなわれ、新聞、出版にとっての死活にかかわる用紙の統制が、一つ加えられた。 政府へ批判的なこ怠納やメディアは用紙割り当てをてこに締め出され、弱小紙の整理統合が強引に進められた。 内閣情報局によって立案された統制団体である「日本出版文化協会」が1940(昭和15)年、「日本新聞連盟」が1941(昭和16)年に相次いで設立される。 一県一紙を目指した新聞の整理統合は1943(昭和18)年10月に完了するが、新聞は統合前に2422紙あったのが55紙に、出版社は3664社が203社にされていた(塚本三夫「戦時下の言論統制」 城戸又一・新井直之・稲葉三千男 編『講座現代ジャーナリズム歴史』時事通信社、1974年、147頁)。
■9 平洋戦争下の言論統制
1941(昭和16)年12月についに日本は太平洋戦争に突入した。 太平洋戦争中にはそれ以前の日中戦争下などとは比べものにならないほど厳重な思想、情報、言論統制がおこなわれた。
【治安、警察関係】 刑法、治安警察法、警察犯処罰令、治安維持法、言論・出版・結社等臨時取締法、思想犯保護観察法 【軍事、国防関係】 戒厳令、要塞地帯法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法、国家総動員法、軍用資源秘密保護法、国防保安法、戦時刑事特別法 【新聞、出版関係】 新聞紙法、新聞紙等掲載制限令、出版法、不穏文書臨時取締法、新聞紙事業令、出版事業令 【郵便、放送、映画、広告関係】 臨時郵便取締法、電信法、無線電信法、大正十二年通信省令第八十九条、映画法、映画法施行規則、広告取締法
このほかにも、新聞にかぎると、さらに内務省差止事項、陸・海軍、外務省による禁止事項、宮内省の申し入れ、情報局懇談事項、大本営発表、指導原稿でがんじがらめにされた上に検閲が2重3重におこなわれ、情報局、内務省、陸海軍報道部、航空本部、警視庁検閲課でチェックされた。
検閲の総本山の内務省警保局検閲課には1942(昭和17)年5月当時、85人の担当者が目を光らせていた。 このなかに新聞検閲係があったが、43年中の新聞の事前検閲ほゲラ刷、またほ原稿によるもの約9万件(一日平均250件)。 このうち不許可処分は1万2000件(全体の13%)にのぼった。また、電話によるものは約5万件(一日平均140件)で、合計14万件に達した(松浦総三『戦時下の言論統制』白川書院、1975年、108頁)。
■10 コミュニケーションの自己崩壊
こうしたきびしい検閲で、開戦直前の日米交渉での野村・ハル会談は「朝日新聞」の特派員が60数行の特電を送稿したのに対して、最終的にたった2行半に削られてしまった。 交渉内容が書けないのは仕方ないにしても「2人はまず握手を交し」が対米親近感を表現する、「会談一時間」が交渉緊迫感をかもし出す、「交渉はなお続行されるだろう」が前途推測不可でズタズタに削られた結果であった。
太平洋戦争がはじまったころの検閲の実態について、朝日・毎日・読売とわたり歩いた名文記者として知られた高木健夫は次のように述懐している。
「新聞社に報道差止め、禁止の通達が毎日何通もあり、整理部では机の前にハリガネをはって、これらの通達をつるすことにしていた。この紙がすぐいっぱいになり、何が禁止なのか覚えているだけでも大変で頭が混乱してきた。禁止、禁止で何も書けない状態であった」
こうした徹底した検閲の一方で、太平洋戦争の報道のシンボルと化したのが、大本営発表である。 嘘と誇大発表の代名詞となった <大本営発表> だが、戦争の最初の半年間は戦果や被���はほぼ正確であった。 それ以後は戦果が誇張され、最後の8ヵ月は嘘の勝利が誇示された。戦争の全期間を通じて、戦艦、巡洋艦は10・3倍、空母6・5倍、飛行機約7倍、輸送船は約8倍もその数を水増しして発表された。
事実の徹底した秘匿、検閲というコミュニケーションの切断が逆に虚報を生み、増幅して、送り手と受け手の相互関係を成立不可能にしていく。 戦前のファシズム体制を支えたメディア統制の総合的極限的システムはこのコミュニケーションの断絶によって、自己崩壊していったのである。
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(出典)→日本メディア検閲史 <新聞法、出版法について> | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト http://www.maesaka-toshiyuki.com/massmedia/3838.html
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